米は「工業製品」か
今日の農業新聞に論点「宇根豊氏」から出てましたのを記載します。
「めぐみ返し」への支援を
米の価格が1年で倍になったのが異常なのではなく、需給バランスで価格が決まることが異常なのだ。コスト計算で決めるのもおかしい。しかも「高い」「安い」という議論ばかりで、工業製品並みになったものだと、あきれる。コメの価格に赤とんぼやカエルの価値は含まれていない。なぜなら赤とんぼやカエルの姿は自然現象だから、タダだと日本人はおもっているからだ。
したがって「農」が生み出す多くの「めぐみ」(環境)の価値は、市場から見放され、危機に直面している。そこでコメの価格に上乗せできないのなら「環境支払い」で払うようにすればいい。もともと食べ物の価値を自給バランスやコスト計算で決めるのは、方便だった。これは「生産」という工業の考え方を「農」に当てはめた結果だ。
「直接払い」の根拠
そもそも食べ物は、生き物だから、人間が「製造(生産)」しているのではない。天地自然から授かっている、いただいている、という受け身の感覚が強かった。私は若い頃、たべものは「つくりのではなく、とれる、できるものだ」と教え込まれたものだ。つまり「農」とは天地自然の「めぐみ」を百姓が手に入れの限りを尽くして受け取るものだ。欧州では百姓の所得の70~80%は、国民の税金から「直接払い」で得られている。「農」は市場では評価できない価値がいっぱい供給しているからだ。それを国民が評価しているからだ。「農」が「産業」になってはいけない理由がここにある。「所得補償」や「環境支払い」を要求する根拠がここにある。だだし、「所得補償」は生産性が上がらない弱小産業の救済策だと誤解されるだろう。あるいは、「安い米」を正当化する手段になり下がるだろう。
国民が支える「価値」
一方の「環境支払い」は天地自然の「めぐみ」の価値を、天地自然の名大として百姓が受け取る。受け取る以上、百姓には天地自然の「めぐみ」が変わらずに繰り返すようにする責任が生じる。これこそ百姓が「天命」だと感じてきたものだ。農水省が、環境への配慮を「農家に新たに負担が生じる」というのは浅薄な理解だ。この「天命」を百姓だけではなく、多くの国民すべてが感じてほしい。日本人が「自然」と呼んでいる多くの「めぐみ」は、「農」があってこそ繰り返す。この「めぐみ」が繰り返すようにすることを「めぐみ返し」と呼びたい。「環境支払い」はこの「めぐみ返し」のための国民からの支援なのだ。新しい時代の扉を開けよう。